台湾台中市大甲区「文昌宮」
熊本出身でありながら、地元でもほとんどその名を知られていない伝説的教育者がいます。
その人の名は、志賀哲太郎といいます。
日清戦争後、我が国に割譲された台湾で、公学校(台湾人の小学校)の教師となって多くの人材を育て、また、大甲の街(現台湾台中市大甲区)の人々にも大きな影響を与えた志賀は、死後90余年を経た今日においても、台湾では「大甲の聖人」として多くの人々に敬愛されています。
志賀は、学問の神様・文昌帝君を祀る文昌宮に祀られるとともに紀念室が設けられ、その遺徳は今も語り継がれ、学び継がれているのです。
志賀は、慶応元年(1865)肥後国上益城郡田原村(現上益城郡益城町田原)で鍛冶屋の長男として誕生しました。その2年前の文久3年(1863)に、2kmほど離れた杉堂村(現益城町杉堂)の矢嶋家において徳富猪一郎(蘇峰)が生まれています。(矢嶋家は蘇峰の母・徳富久子の実家)
この二人の恵まれた才能は、やがて、それぞれの色合いの大輪の花を咲かせることになります。
徳富蘇峰は、ご承知のとおり、ジャーナリストとして終生華々しい道を歩みました。
一方、志賀哲太郎も、青年期に九州日日新聞(熊本日日新聞の前身)の記者として活躍する傍ら、紫溟学会会員、国権党員として、佐々友房や古荘嘉門、安達謙蔵ら(彼らは後に国会議員となり、また、大臣や県知事となって活躍します)と政治運動を展開するなど、時代の先端を走るような活動をしました。しかし、やがて、政界を離れて教育の道に志し、一介の雇教員(代用教員)として台湾の子どもたちの教育に半生を捧げました。
志賀哲太郎のすばらしさは、台湾教育史に残るような偉大な成果を上げたことのみにあるのではなく、「大甲の聖人」と呼ばれるほどの、その人間性にあります。知れば知るほど、その崇高な生き方は、今を生きる私達にも深い感銘を与え、同郷人としての誇りを抱かせてくれます。
志賀の教育姿勢は慈愛に満ち、街の人々に対しても思いやりが深く、植民地台湾においてともすれば優越的な言動をしがちであった邦人が多かった中で、少しも人々を差別するところがなく、一人の人間として対等に接し、親密に交わったと言われています。
当時としてはとても考えられなかったような、異郷の地における徹底した平等観と人間愛。
時代を先取りしたような普遍的な博愛精神が育まれた根源は、いったいどこにあったのでしょうか。
知れば知るほど人を引き付けてやまない志賀哲太郎の気高さ、それでいて人間味あふれる温かい心情、自らに厳しく他者にやさしいおくゆかしさ・・・今なお多くの謎に包まれた聖人の足跡を辿っていただければ幸いです。
志賀哲太郎顕彰会(会長 宮本睦士:益城の歴史遺産を守る会会長)