志 賀 哲 太 郎 年 表 | ||||
和 暦 | 西暦 | 月日 | 年齢 | 事 項 |
慶応元年 | 1865 | 8月28日 | 0 | 父志賀甚三郎、母寿加の長男として田原村330番地で生まれる 幼名岩太郎 |
明治4年 | 1871 | 5 | 中村傳兵衛に四書五経等の手習いを受ける | |
明治5年 | 1872 | 6 | 木山町の私塾に通う | |
明治16年 | 1883 | 17 | 神水義塾で陽明学、英語、仏典等を学ぶ | |
明治20年 | 1887 | 2月 | 21 | 明治法律学校入学、法律学を専攻(大甲村庄史による) |
明治22年 | 1889 | 12月 | 24 | 12月父甚三郎死去 (享年57歳) |
明治23年 | 1890 | 3月 | 24 | 紫溟学会に入会 国権党員、九州日日新聞の記者になる 古荘嘉門(後に群馬県・三重県知事、衆議院議員)・佐々友房(後に衆議院議員)・安達謙蔵(後に逓信・内務大臣、衆議院議員)・宮崎滔天(孫文と交友)らと交流 |
明治24年 | 1891 | 2~12月 | 25 | 英語学修業(京都オリエンタルホール) |
明治25年 | 1892 | 8月~ | 26 | 法律学研究のため元控訴院判事深野達に師事 |
明治26年 | 1893 | 5~6月 | 27 | 選挙活動で東京、京都へ(宗方小太郎日記による) |
明治27年 | 1894 | 3月 | 28 | 九州日日新聞を辞し国権党を離党 |
〃 | 〃 | 4月 | 28 | 熊本県菊池郡原水尋常小学校雇教員 |
明治28年 | 1895 | 4月 | 29 | 菊池郡原水・大原義塾塾頭に就任 |
明治29年 | 1896 | 12月 | 31 | 台湾の子弟教育を目指し台湾へ渡る |
明治30年 | 1897 | 31 | 台湾語習得を兼ねて酒店業開 12月酒舗の資金繰り不足で閉店 | |
明治32年 | 1899 | 2月23日 | 33 | 雇教員として採用 居所を文昌祠に移す 台湾語研修 |
〃 | 〃 | 5月19日 | 33 | 大甲公学校へ赴任 |
明治42年 | 1909 | 9月18日 | 44 | 三堡に校舎完成 |
大正3年 | 1914 | 3月31日 | 48 | 金子校長辞職 |
大正8年 | 1919 | 8月10日 | 53 | 勤続20周年祝賀会は岡村校長の圧力で中止 |
大正11年 | 1922 | 3月31日 | 56 | 台湾公立学校官制公布 (教諭の名称が訓導に改まる) |
大正13年 | 1924 | 12月21日 | 59 | 勤続25周年祝賀会 |
〃 | 〃 | 12月29日 | 59 | 遊泳池で自決 |
〃 | 〃 | 12月30日 | - | 葬儀挙行、鐡砧山に埋葬 |
大正14年 | 1925 | 2月1日 | (0) | 芝山厳に合祀 |
大正15年 | 1926 | 10月30日 | (2) | 鐡砧山に「志賀先生之墓」建立 |
昭和27年 | 1952 | 8月 | (27) | 教え子、日本大使館の哲太郎の墓撤去に反対 |
昭和41年 | 1966 | 9月28日 | (42) | 生誕百年記念墓前祭 「志賀先生之碑」建立を決議 |
平成24年 | 2012 | 2月2日 | (87) | 大甲区文昌祠に志賀紀念館開設 |