志賀哲太郎先生のおもかげ
日本人教師の墓と碑: 台中県大甲鎮は、台中市の西北33キロに位置する静かな地方の街である。(中略)その街の郊外に鐡砧山という高さ236メートルの山がある。(中略)その山の南側山腹に、志賀哲太郎という日本人教師の墓と記念碑が建っている。台湾における日本人のものとしては、戦前から守られる墓石と戦後に立てられた記念碑はともに希な存在である。日本ではほとんど知られていないが、この人物こそ「大甲の聖人」と称えられ、その遺徳は今に伝えられているのである。その墓碑銘には「永久に尊敬を伝えるためにこれを記す」とあるから、その信望はたいへん厚かったようだ。
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慈父のごとし: 志賀が台湾に渡ったのは日本の台湾領有の翌年明治29年、彼が30歳の時だった。その3年後、大甲街(現・大甲鎮)の公学校(台湾人子弟のための小学校)に代用教員として着任した。(中略)
彼は体が大きい上に強面、生徒は初めこそ怖がるが、やがてその心のやさしさに慈父のごとくに慕うといった具合で、例えばかれは貧しい子に対しては、文具がなければ買って与え、病気となれば菓子や絵本を持って見舞い、学費に困れば補助を出した。しかし教室では厳格で、怠ける子には叩きもするが、それは愛のこもったものだったという。
また、彼が訴えてやまなかったのは教育の重要さだった。日本領有直後の台湾では、住民の生活がまだ不安定で教育への理解が浅かった。そこで日曜日になると腰に弁当を提げ、例え遠隔の部落であろうと就学適齢期の子の家を訪ねてまわり、父兄や子どもに登校を懸命に勧めた。その努力と誠意は見事に功を奏し、学校は県下一の出席率を示し、進学率も群を抜き、やがて大甲が各界重要の地位に人材を多く輩出する基となった。
彼が礼節を重んじたことは有名で、「志賀仔有礼儀(志賀さんは礼儀正しい)」と敬われ、人と会えばいつまでも頭を下げるので、皆困ってしまったというエピソードも残る。また時間には厳格で、生徒の遅刻には罰を加えた。発意して学校に鐘を取り付け、住民にも時間の観念を与えた。彼自身も、在職中は無遅刻、無欠勤を貫き通している。
そして彼は、常に「慈悲・倹約・でしゃばらないことを三つの宝として教えていた」(墓碑銘)という。
正に硬骨明治人の真面目を見る思いである。
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その死の背景: 実は今から数年前、志賀の血縁者や歴史研究家がそれぞれ大甲を訪れ、かつての教え子らと会った際、「先生は命をかけて大甲を守った」という話を聞かされているのである。それはいったい何を意味していたのか。
当時、志賀は法律に蒙(くら)く、官憲による圧迫に悩む住民のため、その代弁者として随分と奔走していた。つまり彼は街のよき相談相手であり、指導者的役割を果たしていた訳だ。
役人側も、彼には内地や総督府高官に知己がいることを知っていたので、その要請は無下にしにくかった。官吏が台湾人側の味方につくことは大問題とされていた当時のこと、役人にとって、彼は目の上のこぶだったに違いない。学校側も彼の振舞いを喜ばず、しきりに転勤を勧めるなど、その排除を計ったが、彼の一視同仁の信念は揺らぐことはなかった。
世は大正に移り、台湾では住民の解放と自治を求める民族運動が活発化し、大甲にも早くからその余波が打ち寄せていた。彼もかつては民権を叫んで政府の弾圧に立ち向かった志士であり、愛する台湾人のために起ち上がりたいところだったが、いやしくも総督府の官吏であり、その節義も守り通さなければならず、苦悩を深めていた。「大甲の聖人志賀哲太郎伝」の著者によれば、そのようなジレンマの中で教え子や同僚にも運動への挺身者が出るに及び、ついに真の日本人ここにありと、自決の挙に出たようだ、という。
「台湾と日本 交流秘話」(展転社・平成8年)から抜粋引用: 「大甲の聖人・志賀哲太郎」(P.125~130)
国内の伝記としては、ほかに「志賀哲太郎傳」(昭和49年)、「志賀哲太郎小傳」(平成29年)があります。